観音崎周辺は関前を代表する名勝、史跡、文化財の宝庫であり、瀬戸内海国立公園にも編入されている。
近年では遊歩道や諸施設も完備して、島民の何よりの公園となっている。
古書によると、観音崎は古くは牛渚(牛ヶ崎)と呼ばれ、沖合いは常に風波が激しく航行困難の場所であった。
あるとき(大同年間)弘法大師はこれを憐れんで大悲の観音の尊像を刻んで岩間に安置し、海上の守りとした。
そのため、人々は観音崎と呼ぶようになったという。
別書ではこの尊像は木像で、身長一尺七寸、蓮台四寸の救世(ぐぜ)観音であった。
この菩薩は等覚無垢、三世に亘る利益無辺の霊佛で、胎卵湿化の生類にまでその慈悲を施し、一度この像に帰依した人は、終生の厄難を逃れるという。
寛保(1741〜44)の頃、筑前生まれで俗姓亀松という木喰の行者海オウがこの地に留まって山上に一宇を建立し、弘法大師作の観音像を安置し、自分の笈に入れてきた仏を前立てとした。この頃岡村の神田八左衛門は木喰海オウと共に航行の目標、暗夜の風波の難を避けるため、一基の夜燈台を建立した。
又、寛保二年には御手洗の堺屋夫妻らが厨子付観音像を奉納した。
観音崎の先端付近は、石灰岩の巨石、奇石が林立し、古代からの巨石信仰の地であった。
観音堂の建立は延享二年。 |