小大下島、石灰石採石の歴史
石灰石の採石が始まったのは、文政初年(1818〜)頃からと言われている。
最初は四国本土方面の商人や資本家等に依り、ごく小規模に季節的に短期間のみ採掘され「石灰」として焼成された。やがて関前の地元の者や、近村の者らが、小規模ながら断続的に操業を続け、明治へと引き継がれた。
小大下島は明治の初期の頃は岡村、大下村両村の入会山であってほぼ中央で二分割されていた。
当時の石灰は肥料用を主体に、工事用、建設用等に生産された。
生産量も時間の経過とともに次第に増加し、又新規の業者も加入したようで、記録に依れば、窯数百二十基に達していたとされている。
こうして明治時代小大下島の石灰業は、関前村の基幹産業としての地位を確立した。
大正昭和期においても、最主要産業として村経済、その他に重要な役割を果たし、関前村発展の原動力になった。
当時は全て人力に依る作業であったため、各原石山は数十人を雇用。労働者数は最多の時代となり、村内だけでは不足して、村外からも就労した。
昭和後期にには、各鉱山共に鉱量減少等、採鉱条件の悪化、又、各地に大規模石灰石鉱山が開発されたことによる、販売価格の低迷なども重なり、昭和52年8月31日、本村上鉱山操業休止により、江戸時代から百有余年を経た小大下島の石灰石鉱業は、その使命を終えた。
その後採鉱跡(海水レベル以下)に湧水、雨水などにより湧水池ができ、昭和52年より小大下島、及び岡村の上水道用水源地として活用されている。
又、本村上鉱山の採掘跡(レベル以下)にできた池水も同様、補助水源地として利用されている。 |